十種神宝(とくさのかんだから)が現存すると伝わる、大阪市平野区に鎮座する「楯原神社(たてはらじんじゃ)」
十種神宝とは、天孫「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」が天磐船で天降りする際に、「天神御祖(あまつかみみおや)」から授けられたとしている十種の神宝。この神宝には、病気を治したり死人を蘇生させるほどの霊力が宿るといわれ、「ひふみ祓詞」をとなえることでその秘められて霊力を発揮すると云われている。その十種類の神宝は以下の通り
① 沖津鏡(おきつかがみ)
② 辺津鏡(へつかがみ)
③ 八握剣(やつかのつるぎ)
④ 生玉(いくたま)
⑤ 死返玉(まかるかへしのたま)
⑥ 足玉(たるたま)
⑦ 道返玉(ちかへしのたま)
⑧ 蛇比礼(おろちのひれ)
⑨ 蜂比礼(はちのひれ)
⑩ 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
「ひふみ祓詞」とは
ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
なんのこっちゃさっぱり解らない呪文ですが、一説にはヘブライ語にするとその意味をなすとも云われています。
日本語とヘブライ語の類似点はテレビなどでもよく取り上げられている話なので、ひょっとしたら日本人のルーツは・・・と考えてしまいますね!
「十種神宝」といば、奈良県天理市布留町の「石上神宮」そして、奈良県吉野郡十津川村玉置川に鎮座する「玉置神社」が真っ先に思い出されるのですが、ここ平野の地に本当に現存するのでしょうか!?
式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)
ここ楯原神社には西向きの鳥居と南向きの鳥居がありますが、手水舎は南向きの鳥居にあります。
神社の敷地内は住宅街のど真中とは思えない静寂さが漂っています。そして、真夏のうだるような暑さの中だというのに小さなお子様を連れたまだお若いご夫婦や、ひとり旅かな!?若い男性の参拝客もおられ、この神社が、多くの方から親しまれていることが伺えました。
手水舎を通り、鳥居を抜けると西向きの立派な拝殿が目に入ってきます。
あれ!?「神宝」はどこに祀られているのだろう? 参拝を終え、裏にまわります。
裏には、小さな楠社と稲荷神社、出雲大社や伊弉諾神宮のように本殿を裏から参拝できる場所があり、生い茂る木々が住宅街の真ん中だということを忘れさせてくれます。そして、そこにひっそりと小さなお社があります。
真偽の程は定かではありませんが、どうやらここに「十種神宝」が祀られているようですね!横の説明書きには、
内容を簡単に説明すると次のようなことが書かれている
時は戦国時代、霊験あらたかな「十種瑞津の神宝(十種神宝)」を祭る「石上神宮」が織田信長により焼き討ちに会い、財宝や十種神宝は奪い去られた。しかし、信長は本能寺にて明智光秀に討たれ、その光秀も豊臣秀吉に討たれ天下は秀吉の手に移る。その時、神宝は心ある士に守られていた。秀吉はその神宝のあまりのありがたさに神宝を「生玉の森」奥深くに納め祭った。時は流れ江戸時代も末期、再び神宝は暴徒たちの手によって生玉の森より持ち去られた。その後、幸いにも神宝は、古道具屋でさらされていたのを喜連に住む小林某という人物に買い戻され大切に祭られていた。その後、小林氏が当地を去るにあたり浅井氏に預けた。浅井氏はまた当地の旧家、増池氏に預け後に「式内楯原神社」に社を祭られる。後に、石上神宮から神宝の返還要求があったが断った。
とある。もちろん真意の程は不明!
しかし、この話、ロマンのある話ではないだろうか!?しかし、とある神社の宮司さんの話では、「十種神宝」とは形のあるものではなく、例えば心が満ち足りていないとき、神宝の「足玉(たるたま)」を思い浮かべ心が満ち足りている自分を想像する。病に負けそうなとき「生玉(いくたま)」を思い浮かべ念じることで病いも逃げていくという。病は気からと云いますからね(^^♪
少し疲れたな~と思ったら、ここ「楯原神社」にお参りしてみてはいかがだろうか!?