能勢のぶらり歴史散歩

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松王丸供養塔image ぶらり大阪

能勢(のせ)は大阪の北の端にある山々に囲まれた
大自然の中の避暑地!大阪の市内からでも1時間ほどで大自然の中に

週末になればツーリングのバイク集団の方やジムニーの集団の方たちが
コンビニや道の駅に大集合しています(^^♪

最近は、「能勢高原ドローンフィールド」も有名になってきました。
なかなか都会でドローンを気を遣わず飛ばすところもないので重宝しますね!
※事前に予約が必要です。
※facebookの「関西ドローンクラブ」に入会(入会は無料)しておけば飛行会の情報などドローンの最新情報が手に入りますよ!

 

ところでそんな能勢ですが、歴史や伝説・伝承好きの方には持って来いの「避暑地」・・・かもしれません!?

 

その史跡のおおさは「Googlemap」で確認してもあちらこちらに点在しているのがわかります!
ただ、残念なのがその多くが整備されていないため(とくに城跡)見学ができない場所が多いところです(*_*;

 

そんな中でも見学の出来る場所をご紹介します!

主計坂(かずえざか)「稲荷坂のお稲荷さん」~上杉稲荷神~

 

上杉稲荷神社image

細い峠沿い坂道を上ると赤い鳥居のたくさんある神社が見えてきます。
小さな駐車スペースもありますが、

気にしていないと通り過ぎてしまう小さなお社

この辺りはむかし上杉村と呼ばれ、その村に入るためには「稲荷坂」を越えねばならなかったようです。
古くは「主計坂(かずえざか)」とよれていたと伝わっています。
そして、この奥には地図に「上杉城跡」との記載がありますが勿論、お城は現存していません!

この辺りには他にも多数の山城跡があり当時、重要な拠点があったのが容易に想像できます。

そしてこのお社も当時、霊験あらたかの誉れも高くたくさんの参拝者が訪れていたようです。

 

訪れたこの日は残念ながら本殿改修中だったので参拝は出来ませんでしたが、
このお社が今も村の人たちに手厚く守られているのが分かります。

主計坂のお稲荷さんimage

岐尼神社(きねじんじゃ)

上杉神社を北へ進むとひっそりとした古社があります。

岐尼神社image

ご祭神は「天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」「天児屋根命」「多田満仲(源満仲)」

こちらの神社の周辺には数多くの山城跡が点在し、こちらの神社も当時の戦火に巻き込まれ古書類などを焼失してしまったと云う。

案内板によれば、この地方には天孫降臨の説話があり 「岐尼神」が南の小丘に降臨したとき
土民は臼の上に杵をわたし荒薦を敷いて迎えたと云います。

「杵・岐尼」の響きが社名の由来だということです。

そして、こちらの神社の社記によれば

 

延暦元年(782年)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家のご祈願所でもあったと云う。

岐尼神社拝殿内1image

岐尼神社拝殿内2image

岐尼神社阪正臣歌碑image

少し変わった拝殿内はいっけんの価値ありかもです!

婚礼の行列や「結婚」に関する車がこの峠を避けるという「名月峠」

この峠に残る悲しい伝説で、今でも婚礼の行列や「結婚」に関する車はこの峠を通らない習俗がのこると云う。

「名月峠(めいげつとうげ)」の供養塔

 

長らく子供がなかった摂津国領主が、大日如来に願をかけたところ、中秋名月の夜に女の子を授かり、領主夫婦は美しい名月にあやかり、名月姫と名付ける。容姿艶麗に成長したこの姫は、能勢の領主の妻となって能勢大里の地へと移り平穏な日々を過ごしていたが、姫のあまりの美貌を聞きつけた 時の権力者である平清盛 が、能勢氏から姫を引き離そうとした結果、姫は能勢から離別する羽目に。そして、名月姫は悲哀に明け暮れたが、清盛の権力にはかなわず、平清盛のいる福原京へ向かう事となった。その途中、この峠において自害し果てた。その亡骸を峠に葬ったので、名月峠というようになった。
今でも、婚礼の行列や「結婚」に関するクルマはこの峠を通らない習俗がのこるという

※案内板より抜粋

名月峠image

このバス停の看板が目印!その後ろには案内看板があります。

名月峠案内板image

伝承の内容が内容だけに案内看板が物悲しく見えます( ;∀;)

この奥にすすむと「名月姫」の供養塔があります。
供養塔はなぜか三つあるのですが、両脇の供養塔は名月姫のお供のものとも
姫の夫と父のものとも云われていますが、実際のところはどうなのでしょうか!?

権力者が自身の私利私欲のために横暴も過ぎれば悲劇を生んでしまう!

こんなことがあってはいけないと後世に残された供養塔に現代人は何を学ぶのでしょうか?

 

人柱にするために捕らわれた人たちを救うために、みずから海へ沈んだ「松王丸(まつおうまる)」の供養塔

松王丸供養塔image

松王丸の慰霊塔案内板image

 

ときは「平家」が繁栄を極めていた時代。

 

兵庫の港は「大輪田泊(おおわだのとまり)」とよばれ、中国の「宋(そう)」との貿易や瀬戸内から畿内にかけての海上輸送の拠点として栄えていました。北風は六甲山系が南西からの風は和田岬が防いでいましたが、南東からの波風でしばしば船舶へ危険が及んだため、

より安全な港にするため南東からの波風を防ぐための防波堤になる島を築くことにしましたが、海流が早く工事は難航します。

 

悩んだ「平清盛」は陰陽師に工事の成功を占わせました。

 

すると陰陽師は「工事を成功させるためには海底の竜神さまを沈めなければいけません。そのためには30人の人柱を竜神様に差し出せば良いでしょう」と告げる。

 

清盛はさっそく30人の人柱を集めましたが、そば仕えの少年「松王丸」がその人柱たちをふびんに想い身代わりに単身海へ経石を抱き沈みます。そして、松王丸のおかげか工事は成功し、新しい防波堤代わりの島が完成しました。松王丸が人柱として海へ沈む際、多くの読経と経石を抱いて沈んだことからその島は

 

経ヶ島(きょうがしま)と呼ばれたそうです。

 

そんな松王丸の慰霊塔がここ能勢の住宅地に囲まれたいっかくにひっそりと建っていますが、荒廃も激しく当時の面影はどこまで残っているのでしょう!過去には祭礼も行われていたようですがその面影はありません!もちろん駐車場などもありませんのでお気を付けください。

 

松王丸の慰霊塔は以前訪れた、淡路島の「絵島(えしま)」の頂上にも存在します。

>>絵島の記事はこちら>>

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