中島城址とはいっても・・・
愛知県一宮市萩原町中島に、今は現存しない城址・・・
ただし、「城址」とは言っても、お城の遺構といわれるようなものは
全く残っていません(泣)
さすがに城址らしいものが残っていればと、あちらこちらと歩き回っては見たのですが・・・
何もない・・・まったく何にもない(泣)
唯一、残っているものといえばこの写真の「石碑」と、それとわかる地名のみ。
この石碑の裏には、簡単な説明がこう記されていました。
「尾張ノ豪族中嶋氏ノ城址ナリ 中嶋氏ハ嵯峨源氏ノ末流 平安末期コノ地ヲ領シテ勢アリ 城主ノ子滅宗 妙興寺ヲ創建スルヤ百町歩ヲ寄進ス 城ハ室町末期廃サレ 一族全国ニ散在ス」
石碑の場所は、ちょっと解りずらいのですが、「一宮市立中島小学校」をまっすぐ南へ下ったところ(橋が架かっていないほうの道)の四つ角、地図の真ん中あたりに木々に囲まれひっそりとたたずんでいます。
中島城に居城した「中島(嶋)氏」とは!?
中島城の築城年代は不明、城主は「中島左衛門尉宣長(なかしまさえもんのじょうのりなが)」
その子孫は代々、「中島 蔵人(くらんど・くらうど)」と号した。
中島(嶋)の読み方は、「なかしま」と濁音をつけない古音の清音、全国の「なかしま」さんのご先祖はもしかしたら・・・!?
濁音をつける「なかじま」さんも、言いやすいからとご先祖様が改名している場合もあるようなので、ご先祖様のことをよく知るおじいちゃんやおばあちゃんに一度聞いてみてください(^^♪
中島左衛門尉宣長は、嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣 源 融(みなもとのとおる))の末裔、嵯峨源氏の一族といわれ、平安末期から鎌倉時代初期にこの地に勢力を誇っていたのですが、室町時代に入ってからは、新興勢力の斯波氏や織田氏の勢いに押され、次第に所領を減らされてしまいます。そして、室町時代末には廃城となり「中島(嶋)氏」は全国に四散。歴史の表舞台からは消えたかに見えるものの その後、大坂夏の陣において豊臣秀吉の家臣として活躍する「中島氏種(なかしまうじたね)」がその子孫といわれています。が勿論、定かではありません!
その氏種の子孫の一部は帰農したといわれ、江戸時代に大阪枚方市で活躍した「中島九右衛門(なかしまくえもん)」は、その子孫だといわれています。
さて、ここからは余談ですが、ここ愛知県一宮付近は今では信じられませんが、
1300年前は、ほぼ水没していたことを示す古地図が話題になりました。その古地図とは、猿投神社に伝わる「尾張国古絵図」または、尾張國養老元年之図で検索するとヒットするのですが、中島郡(なかじまのこおり)一宮付近は島だったことがわかります。地図を見る限りは、まさしく「中島」
その地名を、中島氏が名乗った・・・のかもしれませんね?(勿論推測です)
この地図を見ると、あの有名な遊園地のある「長島」や「津島」「飛島」など「島」のつく地名は、ほんとに島だったことがわかります。
最後に・・・
ここ中島城址は、城跡として観光をするには、あまりにも何も残っていません。
しかし、その石碑から東へ行けば「中嶋宮」があり、北東の方角には中島氏の子孫が創建したと伝わる「妙興寺」や「一宮市博物館」があります。あわせて観光することでその歴史を感じることもできるでしょう(^^♪
ただ、城跡が全く現存しないのは非常に残念!
当時の古地図などから、CGなどで「中島城」を復元できないのでしょうかね~ 出来るのであれば「尾張中島城」の雄姿をぜひ見てみたいですね!